築地市場から豊洲市場への移転をめぐる問題で食の安全の問題は解決したのだろうか?
まず、前置きの話をしてみる。
それは、安心と安全という二つの言葉が使われることについてである。
この二つの言葉は、よく次のように使い分けがされることがある。
安心・・・心の問題
安全・・・科学の問題
例えば「科学的に安全性が確保されている。安心できるかどうかはそれぞれの人の心の問題だ。」というように使い分けられている。
しかし、この使い分けは正しくないのではないだろうか?
そもそも安全という言葉は科学用語ではないのではないか?
安全という概念は科学では扱えないのではないか?
あくまでも、人間が科学の知見に基づいて安全性を判断しているだけのはずである。
では、本題に入ってみることにする。
安全とは何なのだろう。
まず、そこで流通する食品のことについて考えてみる。
人体に対して有毒性を持つある物質の人体への影響を考えてみる場合、次の二つのケースに分けて考えることができそうだ。
安全についての二つのケース
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これ以下なら健康に影響がないといえる科学的にはっきりとした閾値がある場合
この場合、閾値をもとにした社会的合意を経て基準値が設定される。
汚染が基準値を下回っていれば「安全」と言う言葉を使うことが許される。(言い換えると、汚染が基準値を上回っている場合、「安全」と言ってはいけないはずである。)
ただし、科学の進展によって新たな科学的知見が得られ、閾値が変わることがある。
その場合、これまで安全と考えられていたことが実は危険であるというようになることもあるし、その逆が起こることもある。
そのような事が起こった場合、基準値は改定される。
個人には、そのようなことに備えてより慎重な行動をする自由が保障される。
つまり、流通しているすべてのものの汚染が基準値を下回っているとしても、個人はその中からより汚染の少ないものを選択できる。 -
これ以下なら健康に影響がないといえる科学的にはっきりとした閾値がない場合
この場合、ここまでの汚染なら安全、それを超える汚染は危険というような線引きをすることはできなくなる。
というわけで、これはそれよりは安全とか、これはそれよりは危険ということが言えるだけである。
だから、この場合、ほとんどすべてのものは「絶対に安全である」とは言えないし、「絶対に危険である」とも言えない。
科学的エビデンスに基づいたリスク評価を行い、どの程度の汚染まで我慢するのかということを話し合い、社会的な合意に基づく基準値を決めるしかない。
この場合でも、汚染が基準値を下回っていれば、「安全」と言う言葉を使うことが許されるのだろう。(一方、汚染が基準値を上回っている場合、「安全」と言ってはいけないはずである。)
その場合でも、個人の選択の自由は保障される。
つまり、個人は、流通しているものの中であるものがほかのものより安全であると判断した場合、基準値にかかわらず、「より安全」なほうを選択できる。
以上二つのケースに対する補足として、次のことも付け加えておいたほうが良いだろう。
*科学の進展によって、閾値があると考えられていたものに、実は閾値がないということがわかることもあり、その逆も起こり得る。
結局どちらのケースでも、最新の科学の知見に基づいて人間が安全の度合いを評価し、社会的合意を得て安全の基準を決めているだけである。
つまり、「安全」は決して科学的真理ではない。
だから、「科学的に安全であることが立証されている」とか「科学的に安全が確保されている」という言い方は矛盾した言い方である。
このような言い方で一般人をミスリードしてはいけないのではないだろうか。
食品を扱う建物の立地条件についても同じように考えて良いのではないだろうか。
豊洲市場に関して言えば、移転の条件として約束した環境基準を満たして初めて「安全」ということができるはずである。
なぜなら、移転の条件として約束した環境基準が社会的合意だったからである。
豊洲市場が出来上がってみると、盛り土がなく、さらに地下水の環境基準が守れていないことが判明した。
環境基準を満たせなかったにも関わらず、後になって「地上部は科学的に安全」などど言うのは「安全」の意味を変えてしまうことに他ならない。
東京都民はそのことを理解し受け入れたのだろうか?